聖書の学び資料
パンの奇跡
ルカによる福音9章、列王記17章
5千人に5つのパンと2匹の魚を食べさせた話は、何度も読んだことがあるでしょう。ヨハネの福音によると、一人の少年が自分と自分の親しい人のために持っていたお弁当だったようです。食べ物がなくて困っていた弟子たちを見て、話しやすいアンデレに頼んで、イエス様にお捧げしたお弁当だったと考えられます。この5つのパンが増えて5千人が満腹したのか、この少年の姿を見て、他にも自分のお弁当を差し出した人がたくさん出て来たのか、本当のところは分かりません。物質の奇跡か心の奇跡かの違いはありますが、イエス様の奇跡は、5千人の人が満腹したのです。
この話の面白いところは、弟子たちの宣教活動からの流れの出来事であることと、癒しと食事が結びついていることです。弟子たちはイエス様から派遣されて方々の町や村に出かけ、病気を癒し、神の国を宣教した帰りでした。おそらくその活動は成功で、興奮しながら喜んで帰ってきては、イエス様に報告したのでしょう。さて、自分たちだけで休もうとしたところ、またもや人々が押しかけて来て、同じように神の国について語り、病人を癒すことになるのです。イエス様は、ここでさらにもう一つのことを示されました。神の国について語り、病気を癒したら、共に食事をしようということです。キリスト教にとって、共に食事をすることはとても大切です。これはただ腹が満たされるだけではなく、人と人とのつながりです。聖書にはイエス様との食事の場面がよく出てきます。罪人と食事をするイエス様、食事の場でイエス様に気づく弟子たち、最後の晩餐で大切なことを弟子たちに教えるイエス様、そしてミサはイエス様の体を食べる食事の場です。食べるということは、人間にとって生きるために欠かせない行為です。命の源と言っても良いでしょう。心と体の癒しと神の国についての宣教は、食事を通して本当の命へと導かれ、完成するのです。
旧約聖書では、別のパンの奇跡を読みました。預言者エリヤと共に生き延びた、外国の未亡人の話です。壺の中に1つのパンを作る分だけの小麦粉しか持っていなかったこの女性は、エリヤの言葉を信じて、干ばつがおさまるまで、パンを作り続けることができました。壺の中の小麦粉が、なくなることがなかったのです。これは、この女性の犠牲と信頼があってこそ可能となった奇跡です。自分と自分の息子のための最後の食糧を差し出す犠牲、これは分かち合いです。そして、それでも小麦粉は尽きないというエリヤの言葉を信じること。分かち合うことは、相手を信じることでもあります。相手を信頼するからこそ、自分の心の内を分かち合うことができます。食事を分かち合う時、相手が喜んでくれることを信じて分かち合います。分かち合いの素晴らしさは、相手を信頼する暖かさがそこにあるからなのでしょう。
今日のテーマの中で、もう一つ考えさせられることがあります。ユダヤ教徒にとって、ユダヤ人以外の人が救われることはあり得ませんでした。にもかかわらず、神様は預言者エリヤをユダヤ人ではなく、この外国人に遣わし、ユダヤ人が干ばつのために飢えている中、この外国人は飢えから救われたのです。
新約聖書でのパンの奇跡も同じです。今日は5つのパンを5千人にという話を読みましたが、7つのパンを4千人にという話もあります。これはデカポリス地方で行われた奇跡であるため、異邦人の地、外国なのです。ユダヤ人だけが救われると思っていたユダヤ教の神が、ユダヤ以外で奇跡を行い、異邦人に救いがもたらされる出来事です。しかも、パンの数が7、残ったパン屑を集めた籠の数も7です。7という数字は、完全を表す数字です。神様の奇跡は、異邦人において完成したのです。実際、キリスト教を信じている人のほとんどが、ユダヤ人からすれば外国人、異邦人です。4千人にパンを食べさせる話やエリヤと共に干ばつを生き延びた女性の話は、キリスト教の先取りとも言えるでしょう。私たち日本人は皆、ユダヤ教にとって異邦人です。しかし、私たちはイエス様を信じています。イエス様と語り合い、イエス様からの恵みを頂いています。その素晴らしさを味わいたいと思います。
今日は、信頼と分かち合いについて、神の国の宣教と癒しと食事の関係について、そして自分がイエス様を信じている喜びについて、話し合いたいと思います。
