聖書の学び資料
神殿で捧げられる・カインとアベル
ルカによる福音2章、創世記4章
今日のテーマは「捧げる」です。「捧げる」と聞いて何をイメージしますか?真心や愛情をもって相手に尽くす意味で「家族に捧げる」、慎みの心をもって神仏に差し出す意味で「祈りを捧げる」、自分の身も心もささげる意味で「研究に捧げる」などが思い浮かびます。旧約の時代には、神への感謝の気持ちを込めて「神に返す」という意味で、収穫の初物や家畜の初子を捧げていました。現在の私たちでも、その年最初に咲いたバラをマリア様に捧げて、マリア像の前に活けることをよくします。ユダヤでは、捧げ物といったら燃やして煙にし、その煙が天に昇ることで神へと届くのだと信じていました。カインは土の実りを、アベルは肥えた初子を神への捧げ物としましたが、神が目を留められたのは、アベルの子羊だったのです。なぜ神はアベルの捧げ物を気に入り、カインの捧げ物には目を向けなかったのでしょう?カインは自分が受け入れてもらえなかったことを怒りました。しかし神様は、怒ったカインに対して「もしお前が正しいのなら」どうして怒るのかと言われます。そしてカインは、自分の正しくないことを指摘されてひねくれた、そんな感じなのでしょう。では、その捧げ物の何が正しくなかったのでしょうか。これは想像でしかありませんが、アベルは一番良いものを捧げたのに対し、カインは一番良いものではなかったのかもしれません。もしかしたら、収穫のうち、一部を自分のために取っておいたのかもしれません。神への感謝の気持ちが足りなかったのかもしれません。私たちにもそんな姿がありませんか?
聖書では、名前の意味をとても大切にしています。アベルは、「無意味、無価値」を意味する名前です。神様は、無意味な無価値な存在とみなされているものを選び、受け入れてくださる、ということを表しています。では、現代の中で無価値とみなされている存在とは何でしょう?社会的に無価値とみなされているものに、私たちは目を向けているでしょうか?あるいは自分が、「無価値」とみなしてしまっているものがあるでしょうか?そして神様がアベルを受け入れたように、私たちも、無価値とみなしてしまっている存在を受け入れることが出来るでしょうか?神様にとっては、無価値な存在などあるはずがありません。それを忘れないで過ごしたいものです。カインとアベルの話でもう一つ注目したい点は、罪人を憐れむ神様の姿です。カインは弟を殺すという大きな罪を犯してしまいました。しかも反省するどころか、自分に下される罰を恐れるという、自分中心的な態度を取ります。にもかかわらず、神様はカインを守るのです。どんな罪人であっても、神様にとっては、やはり「無価値」ではないのです。
ルカ福音書を見てみましょう。イエス様が神殿にささげられた話ですが、ユダヤ教にはいけにえの制度があり、神様から祝福をいただくため、守っていただくため、あるいは罪のゆるしをいただくために、動物や何らかのものをささげる習慣がありました。律法には、初めて生まれる男子は神にささげられると定められています。しかし、赤ん坊を捧げて神殿に置いてくるわけにもいかず、そのかわりに家鳩や山鳩をささげることになっていたのです。ここで、「聖別」という言葉が出てきました。一般・世俗・日常のものから引き離して区別することを意味します。つまり、その何かを、神様のために取り分ける、取っておくのです。例えば、ご飯を炊いた時、その一部を取り分けて仏前にお供えするイメージです。例えば、時間を神様のために取り分けましょう。一日のうち、神様のために取っておく時間はありますか?通勤・通学の時間を、神様を考える時間にしても良いでしょう。寝る前の数分を神様の時間、と決めても良いでしょう。神様への捧げ方は人それぞれです。祈りに限らず、「勉強の時間を神様に捧げる」でも良いでしょう。「この仕事を神様に捧げる」でも良いでしょう。洗濯や掃除をしていても、友達と遊んでいても、食事をしていても、試験を受けていても、誰かの話を聞いている時でも、この時間・活動を神様に捧げます、と意向を付けて過ごしたら、物事に取り組む姿勢や気持ちが全く異なってくると思います。人生を自分のために生きるか神様のために生きるかは、自分次第です。自分のために生きる人生はどのようでしょう?神様のために生きる人生はどのようでしょう?考えてみたいと思います。
